「ジャスミン畑」心書vol.49

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「なぜ、エジプトへ留学したの?」

よく質問される。

わたしはエジプトのジャスミン畑における児童労働のフィールドワークがしたくて、

エジプトへ留学した。

普通の大学生だったわたしには通訳を雇うという選択肢はなかった。

自分がアラビア語ができるようにならないと

フィールドワークが出来なかったため、

まずはアラビア語の勉強をカイロ大学で始めた。


留学から約半年後、フィールドワークしたいと思っていたジャスミン畑を探し始めた。

大学の授業で児童労働の勉強をした際、

エジプトにあるジャスミン畑を例にしたドキュメンタリーをみた。

ドキュメンタリーの中で、子ども達は仕事へ向かう車が横転し、大怪我をする。

それでも

「仕事へ行きたい。」

という子ども達を

「可哀想だ。」

とし、児童労働を批判したままドキュメンタリーは終わった。


大学生のわたしは不思議だった。

『日本だって丁稚奉公の時代があり、

 子ども達が働いていた。

 自分達が経済的に発展したから、児童労働は全部ダメというのは

 新興国の経済発展をとめることなのではないか?

 また、その子ども達を不幸せだと一方的に決めつけるのはおかしくないか?』


わたしはモヤモヤしていた。

そんな時に大学の掲示板で、エジプト政府の奨学生募集の貼り紙をみつけ、応募した。

結果、約1年間、アラビア語学習という目的で留学できることになった。


ジャスミン畑にはなかなか辿り着けなかった。

ようやく教えてもらえた住所は、例えば、尼崎市大阪市の間という様な内容だった。

直ぐに見つかるはずがない。

何度かトライして、ようやく辿り着いたジャスミン畑で

わたしはとあるジャスミン畑のオーナー一家にお世話になることになった。

彼らは急にやってきたカタコトの文語しかアラビア語が話せず、

そこに辿り着いた理由を「ジャスミンが好きだから。」としか言わないアジア人のわたしに本当に良くしてくれた。


何度か日帰りでお邪魔した後、泊まらせてもらうようになった。

徐々に村の中を自由に歩けるようになり、

ジャスミン畑で一緒に働かせてもらったりもした。


ジャスミンの収穫は夜中に始まる。

初めてお泊まりさせてもらった時に驚いた。

夜10時以降にベランダに出ると村中にジャスミンの良い香りが充満するのだ。

そのため、収穫は夜中に始まり、朝の8時過ぎには終わる。

そこのジャスミン畑は家族毎で何列かずつ収穫を担っていた。

例えば北から3列はA一家、次の5列はB一家といった感じだ。

収穫した花の重量で賃金が支払われていた。


家族総出で、みんな少しでも多く収穫しようと力を合わせていた。

子ども達とジャスミンを摘みながら、

「働くのは楽しい?」

と聞いたりもした。

「大変なこともあるけど、家族の力になりたいんだ。」

とよく答えられた。

村には学校があり、ジャスミン畑で働く子達は昼から学校へ行っていた。

学校へ行き聞いてみると2部制になっているとのことだった。


摘んだジャスミンを香水の素にする工場も村にはあった。

ジャスミン畑のオーナーに連れて行ってもらい、見学させてもらったこともある。

そこでつくられた香水の素を薄めたら、

欧米の有名ブランドのジャスミンの香水になる。


「◯◯知ってる?

 ここのジャスミンは欧米ですごく有名な香水になるんだよ!」

と、何度も子ども達から自慢げに言われた。

彼らがその香水を買える日はこないのかもしれないが、

その香水を買えないことが不幸なことなのかは分からなかった。


ジャスミン畑に辿り着くまで、わたしの留学生活はかなり波瀾万丈だった。

21年生きてきて、1番騙された半年だった。

かなり疲れており、

『エジプトなんて大嫌いだ!』

ナイル川を見ながら何回泣いたか数え切れない。

でも、ジャスミン畑に辿り着いて、わたしはエジプトが大好きになった。

彼らはわたしからお金を取ったり、騙したりしようとは一度もしなかった。

むしろ、わたしは常に彼らから与えてもらってばかりだった。


決して全ての児童労働が良いと思った訳ではないが、

彼らと生活しながら、

『幸せか、不幸かは他人が決めることではない。』

と強く思った。


未だにジャスミン畑のオーナー一家とは連絡を取り、

エジプトへ里帰りする際には必ず顔を出している。

そして、何か自分が迷うことがある時は彼らを思い出し、

『他人からみてではなく、

 自分自身が幸せだと思うか。』

問いかけるようにしている。