「リーキーガット」心書vol.85

『あれからもう1年かぁ。』

 

一昨年末、急に全身に湿疹がでた。

痒くて眠れない日が続き、昨年は新年早々に診てもらえる皮膚科を探した。

゛極度の乾燥肌(皮脂欠乏性湿疹)゛と診断された。

出された薬を塗っている間は湿疹も治ったが、

妊娠をきっかけに薬をやめることになり、

治っていた湿疹は日に日に酷くなっていった。

妊娠中はそれでも気持ちは前向きだった。

流産を機に、自分のカラダと向き合う必要性を感じた。

 

以前からネットで調べ、気になっていた病気があり、

流産した際の診察で気になることを聞かれた時、

そのことを思い切って口にしたことをきっかけに

検査をまずは受けてみることにした。

 

特殊な検査のため、受けられる病院も限られており、

また保険適用外のため、高額な医療費がかかることもわかっていたが

わたしには前に進むという気持ちしかなかった。

 

様々な検査の結果、わたしが思っていた病気ではなかったが、

リーキーガットと呼ばれる

腸壁が薄くなることで様々な症状がでる病気だと診断された。

湿疹が酷くなってきた時から小麦粉はきっぱりやめていたが、

追加でアルコール、乳製品もやめることになり、

砂糖、桃なども気をつけることとなった。

治療が終われば、再び食べられるようになることが

心の大きな支えになっている。

 

治療を始めてから半年。

湿疹も治ってきていた中、コロナにかかった。

ようやく治ってきていた足の湿疹が一気に悪化した。

 

検査をきっかけに通い始めた内科の先生から

追加の検査をすすめてもらった。

結果、わたしのカラダには重金属がかなり蓄積しており、

リーキーガットに加え、それらが湿疹をはじめ、

様々な不調をまねいていることがわかった。

 

小麦粉や乳製品をやめた際に

インターネットで調べた結果、

本当なら食べる量も減らし

腸を休めた方が良いのではと思ったが

゛食べないこと゛と゛食べられないこと゛の違いを痛感していたわたしは

大きく食べる量を減らすことはしなかった。

食べたいのに食べられないストレスを感じていたからだ。

しかし、コロナをきっかけに朝ごはんをスムージーへ切り替え、

食べる量を意識的に減らした。

 

1クール5ヶ月の治療も2ヶ月目に突入した。

一進一退の状況だが、

『今年こそは小麦粉と乳製品を食べられるようにするぞ!』

と、改めて心に誓った元旦であった。

「初盆」心書vol.84

夫が仕事で不在の週末、わたしは急ぎ足で歩いていた。

わたしにはルーティンがある。

自宅の最寄り駅へ向かっていると、

ふと、消え入るような小さな声が聞こえてきた気がした。

「すみません。」

振り返ると年配の女性が座り込む勢いでしゃがみこんでいた。

 

わたしは急いでいたが、その女性がいるところまで戻った。

話を聞くと病院へ向かっていたが、道を間違えて、迷子になっていたようであった。

時間も時間であったため、

『もう診療時間には間に合わないのでは?』

と思ったが、取り敢えず、向かっていた病院へ電話した。

 

電話している最中、その女性は暑さと疲れから倒れ込んでしまった。

結局、病院には間に合わないとなり、

病院から娘さんへ電話してくれることになった。

女性を近くのコインランドリーの中へ連れて行き、

そこで娘さんを待つように伝えた。

 

『はて、間に合わない!急がなくては。』

と思いながら、時計をみたら、もう、予定から大幅に遅れていることに気が付いた。

 

何秒か考えた結果、わたしはタクシーを探した。

近くに休憩中のタクシーを見つけたので、

事情を話し、タクシーをまわしてもらった。

女性はふらふらになりながら、歩き始めていた。

急いで呼び止め、タクシーに乗せた。

体調不良からか、その女性は住所が直ぐに答えられなかったが、

荷物の中に郵便物があり、そこから自宅がわかった。

 

無事に女性を自宅まで送り届け、

わたしはルーティンをこなすために出発した。

案の定、予定の送迎バスには全く間に合わなかったため、

市内バスでいつもの温泉にたどり着き、いつもより素早く入浴した。

 

そして、女性のことを思い出していた。

「知らない人にこんなに優しくしてもらったのは初めてです。

 本当にありがとうございます。」

別れ際、涙目になっている女性からそうお礼の言葉を頂いた。

わたしはただ義母に似ている気がして、ほうっておくことができなかったのだ。

義両親は1年ほど前まで2人暮らしをしていた。

日に日に出来ないことが増え、周りに助けてもらって生活していたと想像する。

だからではないが、誰かの力になれたのなら、

まわりまわって、義母の力になれるかもしれないと思った。

そんなことを思いながら、温泉につかり、帰宅した。

 

義母が亡くなったのは、90歳の誕生日から約1ヶ月後だった。

90歳の誕生日にはわたし達夫婦も大阪から駆けつけ、孫も集まり、

義母はとても嬉しそうだった。

「◯◯ちゃん、△△ちゃん(夫のこと)をよろしくね。またね。」

と手を振ってくれたのが最後になってしまった。

 

義母は強い人だったとみんな口を揃えて言う。

軍の上層部の家に生まれたことから、

養子に出され、養子先を転々としたと聞いた。

そんな義母はわたしの故郷に住んでいたことがあると話してくれた。

「初恋の人が住んでいて、、、。」

と、義母の初恋がわたしの故郷であったことを話してくれた時の

義父のすねた顔が忘れられない。

 

義父が亡くなって半年も待たず、

義母も逝ってしまい、この夏が義両親の初盆になった。

きっと義父は寂しかったのだと思っている。

 

お義母さん、もっと色々なことを教えてもらいたかったです。

お義父さんと仲良く、見守ってください。

「初心を思い出す」心書vol.83

先月の役員会で執行役員に選任された。

ついてきてくれている部下達に改めて感謝した。

少し前に内示は頂いていたが、実感があまりなかった。

正直、内示を受けた時、驚きと同時に安心したような気持ちがあった。

 

夫は同じ業界に勤めている。

結婚する時、私はもう今の役職以上には昇格はできないであろうと思った。

夫にその旨を伝えたところ、「本当に結婚して良いか?」

と、念押しを受けたことを覚えている。

 

私の勤め先はオーナー企業だ。

同じ業界に経営者の夫がいることは

きっと想定外であっただろうし、

ウェルカムではなかったであろう。

 

結婚する直前、部長職へ昇格した際、

『このままいけば(今までの私なら)2年後に執行役員になれる可能性もあるだろう』

と頭をよぎったことは事実だ。

その可能性がなくなったとしても良いと思って結婚した。

 

営業数字を上げること、

部下や他の部署の若手に目を配ることを

今まで以上に気をつけた。

『役職じゃない。

やれることをやろう。』

 

「旦那さんは変わらずご飯作って待ってくれているの?」

会食した際、勤め先の社長から聞かれた。

「はい。」と答えたら、

「家事してくれる旦那さんで本当に良かったよね。」

と専務が続いた。

 

「◯◯さんの人生にとってプラスになれるよう、

 今まで通り、いや、今まで以上に好きな仕事ができるよう

 頑張りますので。」

結婚を認めてもらおうと顔合わせした際、

わたしの両親にそう宣言した夫は

平日の夜ご飯をつくり、帰りを待ってくれている。

他の家事も率先して担ってくれていること、感謝している。

 

若手の頃、勤め先の取締役は転職してきてもらうことが多く、

営業先へ同行してもらっても

「初めまして」となることがほとんどであった。

『もし、自分が役員になれる日がきたら、

その時が初めましてではなく、

「あっあのひよっこが?」

と思ってもらえるように頑張ろう。』

そんなことを同行してもらいながら、思っていた。

 

執行役員から取締役になるにはまだまだ足りないことばかりだが、

その気持ちを忘れず、頑張ろうと思う。

「2周年」心書vol.82

昨日は結婚記念日だった。

結婚してから2年が経った。

この1年間は特に悲しい出来事が多く、

夫と楽しくGWに旅行できたことに感謝だ。

 

わたし達夫婦は仕事上で知り合って8年が経っているが、

2人きりで会ってから約3ヶ月で入籍したため

結婚してから知ったことの方がお互いに多いと思う。

普段は照れ臭いので、夫の良いところをあえて口にすることはないが、

この1年で実感したのは辛い時、悲しい時、

必ず寄り添ってくれるところは良いところだと思っている。

 

義父やお世話になったおじいちゃんが亡くなったことはもちろん、

ようやく授かった我が子を流産してしまったことは

とても辛く、悲しかった。

流産したことがわかった日は夫の誕生日だった。

『先週まであんなに元気だったのに。』

そんなことを考えてしまい、すっかり食欲が落ちてしまった。

仕事中は気が張り詰めているから良いが、

会社から一歩出てしまうと涙が止まらない。

 

『日にち薬だ!』

と自分に言い聞かせて、毎日を淡々と過ごすことでしか

自分を保てなかった。

 

そんなある日の夕食時、夫の様子がおかしいなと思ったので、

「大丈夫?」と尋ねた。

「◯◯ちゃんが普通にご飯を食べてくれるだけで

 僕は幸せだと思って。」

と夫はこたえた。

目に涙を浮かべる夫をみて、

『この人と結婚して良かった。』

と心底思った。

 

夫は悲しむわたしに特別なにかを言うわけではなかった。

むしろ今までと変わらず接してくれ、

夫の前で泣いてしまった時は無言で肩を抱いてくれた。

でも、内心はすごく心配してくれていたのだと改めて気付いた。

そして、そのことに気付けて良かったと思った。

 

新たな1年もいろいろなことがあると思うが、

夫婦で乗り越えていきたいと思う。

「義父」心書vol.81

 

「◯◯さんがお嫁に来てくれて

 ▲▲(夫)も喜んじょりますが、

 わしも喜んじょります。

 本当にありがとうございます。」

 

思い切って夫婦で購入した新居へ引越しして10日後。

わたしの両親を新居へ招待した日、

初めて義父とわたしの父が話をした。

義父は我が父へ感謝の気持ちを伝えてくれた。

まさかそれが最後の会話になるとは思っていなかった。

 

義父が亡くなった。

自分の孫とさほど年齢の変わらない相手が

息子の3度目の結婚相手だとは義父も想像しなかったであろう。

それにもかかわらず、義父はいつも優しく、

わたしの家族の体調を気にしてくれた。

孫みたいな年齢のわたしに、叱る気持ちもなかったのかもしれないが、

義父と話す時間がわたしは好きだった。

 

亡くなった日、朝から娘2人に電話をしたが、繋がらなかったようだ。

留守番に入っていた声があまりに辛そうだったからと

午後から娘(義妹)2人で施設へ様子を見に行ってくれた。

義父の部屋を覗いたら、苦しそうだが、呼吸はしていたとのこと。

施設の看護師さんと打ち合わせを5分程した後、

再度、部屋を覗いたら、もう息を引き取っていたとのことだった。

施設に入った6日後だった。

 

義父は16年前に末期の胃癌にかかり、

余命宣告をされた。

しかし、奇跡的な快復をみせ、完治させた。

夫の家族いわく、末期の癌患者には見えなかったとのことだ。

同部屋の方々が次々亡くなる中で義父は言ったそうだ。

「そりゃ、みんな、『もう無理だ。無理だ。』とばかり言っているからだ。

 『死ぬ。死ぬ。』と言っていたら、死ぬだろう。

 わしは死なんからな。」

 

〝病は気から〝

正にそれを体現したのが義父の人生だった。

 

身近な人が亡くなり、気が弱くなってしまった義父。

もっといろいろな話をしてみたかった。

 

お義父さん、辛い事が続いて、さすがにこたえますが、

気持ちだけは強くもって、▲▲さんと夫婦で前へ進みます。

「ドクターイエロー」心書vol.80

『あっ!ドクターイエロー!!』

出張先から急いで会社へ戻るために降りた駅で

ドクターイエローをみた。

降りたホームの反対ホームに停まっていたのだ。

 

子ども達の撮影が落ち着いたかな?というタイミングをみて、

すかさず最前列を確保した。

何枚か写真を撮り、急いで会社へ向かう。

 

『あっ。パスケースがない!』

改札へ向かう途中で気づき、急いでホームに戻り、探したものの、

見つからなかった。

改札で事情を説明し、改札の外に出させてもらい、

忘れ物センターに駆け込んだ。

新幹線の座席を確認してもらったものの見つからず、

忘れ物登録をすまして、会社へ急いだ。

 

帰社が遅れてしまいそうだったため、予め会社に電話してあった。

会社へ戻ると部下からひと言。

「私もドクターイエローを1年の間に3回みたことがありますけど、

 その年に飼い猫が亡くなりました。

 良いことありませんでしたよ。」

 

『ガーン!!』

私の心の中でそんな音がした気がした。

 

その日の夜は以前派遣できて頂いていた方と

部下の結婚祝いの食事をすることになっていた。

「◯◯さん、まだアボカドを育てようとされていますか?」

と、食事途中、派遣で来て頂いていた□□さんから聞かれた。

 

私「何度か□□さんのお母さんにアドバイス頂いたようにやってみましたが、

  育たなくて諦めてしまいました。」

□□さん「実は母から「◯◯支店長、まだアボカド育てていらっしゃるやろうか?」

     と聞かれたのですが、「分からない。」って答えたんです。」

私「お母さん、覚えていてくださったんですね。

  ありがとうございます。」

□□さん「「お母さん、1年かけて育てておいたから、

     もう枯れないと思うねん。

     明日持って行ってあげ。2本あるからちゃんと実がなるよ。」

     と言われたんですが、

     ◯◯さん、お荷物もあられるし、「邪魔になられるよ。要らない。」

     と答えたんですけど、、、。」

私「お気遣いありがとうございます。」

□□さん「朝起きたら、自宅前にアボカドの木が2本置かれていて、、、。

     夜中のうちに母に言われて、父が持って来たんだと思うんですよね。   

     邪魔ですよね。」

 

なんと、お母さんが覚えていてくれて、代わりに育ててくださっていたとは!

パスケース兼名刺入れを失くしたことを忘れるほど、

ほっこりした。

すると携帯が鳴っていることに気付いた。

 

駅員さん「◯◯さんの携帯ですか?   

     ご連絡が遅くなってすみません。

     お探しのパスケースと思われるものが見つかりました。

     お名刺が入っていたので、間違いはないと思うのですが、

     念のため、落とされた際の状況を教えて頂けますか?」

私「▲▲時▲▲分に新幹線を降りましたら、

  反対ホームにドクターイエローが停まっていたので、

  思わず写真を撮ってしまいまして、

  その際に落としたのではないかと思っています。」

駅員さん「そうですか。  

     いつ来られますか?」

 

なんとパスケース兼名刺入れも無事に見つかった。

次の日に忘れ物センターに寄って、確認すると

確かに私のものだった。

 

私「ありがとうございます。

  ドクターイエローをみたらテンション上がってしまって。」

と話していたら、隣の席で違う方の対応をされていた駅員さんから話しかけられた。

駅員さん「電話で、ドクターイエローをみていたとお話されていた方ですよね? 

     良かったら。」

と言って、ドクターイエローの絵が描かれた忘れ物を送る際に使われている紙を下さった。

 

落とし物をしたことは反省だが、

なんだか良い1日になった。

「熱量」心書vol.79

「私達から何回説明しても社長を説得出来ませんでした。

 来週、直接、うちの社長を説得しにきてください。

 社長が納得するような表現でお願いします。」

 

3年前、とあるお取引先さんへ仕入先の方と訪問した。

取引先社長「メーカーに女性営業って珍しいですね。

      どういったつもりなんでしょう?

      御社では女性でもメーカー営業ができるというお考えなんでしょうね。」

 

嫌な予感が的中した。

仕入先の方からそのお取引先さんへ連れて行って欲しいと頼まれた際、

なんとなく、どうにか行かずに済ませたいという思いに駆られて

「アポの調整が出来なかった。」

と何度かお伝えし、先延ばしにしていた。

〝どうしても訪問してみたい〝という思いに私は根負けした。

 

社長の言葉に対して先方の取締役はじめ、同席された方々は

何にもおっしゃる雰囲気がなかった。

私「社長、すみません!

  私に色々と至らないところがあって、

  女性営業に先入観をもたれてしまったなら、申し訳ありません。

  がんばります。」

と、咄嗟に言った。

 

面談が終わった帰り道、私は仕入先の方に改めて謝った。

私「嫌な思いをさせてしまい、申し訳ありません。」

仕入先の方「◯◯さんは何にも悪くないじゃない。

      気にしていないから。色々な人がいるよね。

      なんだかケーキが食べたいんだけど、お茶する時間ある?」

 

そのお取引先さんへ訪問する前、同業者のお取引さんへも訪問した。

仕入先の方がまだ営業になられて日が浅く、

〝是非、自社の商品を使ってくださっているお客様を勉強させてもらいたい〝

とのことで、工場見学のお願いがあった。

3社中2社が快く工場見学をさせてくださった。

お断りを受けた1社が今回のお取引先さんだった。

 

仕入先の方「それぞれの会社の方針があられるから仕方ないわよ。

      色々とありがとうね。」

 

そんなことがあってから、そのお取引先さんに対する仕入先の方の対応は変わってしまった。

他へ販売できても、そのお取引先さんへは販売ができない製品もでてきた。

また、販売価格の見直しの話も何度か出た。

反対に、工場見学させてくださったお取引先さんが困った時は

直ぐに手を差し伸べてくださった。

それは仕入先のご担当者が変わられても変わらない。

 

今回、購入予定の数量を大幅に減らしたいという話がお取引先さんからあった。

当社の担当者から何度も話してもらった。

今の価格を維持できなくなる可能性があることも念押ししてもらった。

しかし、お取引先の取締役から「むしろ、僕の話聞いてる?」

と言われたと担当者から報告があった。

 

結果、お取引先さんから私へ何度も電話があった。

取引先取締役「やっぱり□□さんは(外国人だから)話が通じなくて大変や。」

と開口一番おっしゃった。

 

しかし、話を聞いていくと、お取引先さんが都合の悪いことは

全部忘れていることがよく分かった。

私「うちの□□はその前提があってお話させて頂いているので、

  本当にこんなことを仕入先へ伝えて大丈夫かな?

  と、心配して、何度もお話させて頂いております。」

と伝えた。

 

すると、冒頭の通り、会社へ来て説明して欲しいとのことだった。

担当者からは「このままいけば、会社が倒産するということまで電話で言われました。」

と報告があった。

 

与信管理をしなければならない立場からすると最悪だ。

お取引先の社長との面談と並行し、各所に根回しをし、

どうにか当初の予定数量に近い形で決着した。

伝え方は難しいと改めて考えさせられた。

 

『うちの会社もそんなことが起きるかもしれない。

 ダメなことはダムだと、上に言わないといけない場面は

 これからもあるだろう。

 また、相手の立場にたって言葉を選ばないといけない。

 どんな相手だって感情はある。

 無駄に嫌われる必要はない。』

 

私は与信は相手に対する熱量に近いのかも知れないと思うことがある。

お取引先さんがいつ気付いてくださるかは不明だが、

当社の熱量がここ数年で冷めてしまったのは事実だ。

どういったお付き合いをさせて頂くか、よく考えていきたい。