「なまえ」心書vol.87

「忘れたらあかんやろ。」

 

父がアルツハイマーと診断される前後、

母は父を1人にできないと思い始めた。

仕事終わり、強風の中、自転車に乗って急いで帰宅しようとしたところ、

風に飛ばされて、手と足を骨折した。

手足の自由を奪われた母のサポートで、実家に顔を出すことが増えた。

 

当時、仕事の都合で、月の半分は東京にいたため、

自分が次実家へ帰れるまでの日数分の両親の食事を自宅で作り、

実家へ食事を持って行く日々が始まった。

3食分の食事を考えて、作る大変さが身にしみた。

 

そんなある日、ふと、父の手帳が目に入った。

ペンが挟まれており、何気なく手に取って、

そのペンが挟まれたページを開いた。

 

そこには何度も家族の名前が書かれていた。

 

父がアルツハイマーであることが受け入れられていなかったわたしであったが、

何と父に言って良いのか躊躇った。

 

「お父さん、なんで、こんなにたくさん何度も名前が書いてあるの?」

と少し間を置いて聞いた。

「忘れたらあかんやろ。」

何と答えて良いか一瞬迷う自分がいた。

「忘れるはずないやん。大丈夫やって。」

 

父の病気の進行が思っていたより早く、

約1年後、父が心配していたことが現実になった。

あの時、父はどれぐらい不安であったであろう。

 

今の父は自分からは自分の名前は言えない。

自分の名前を言われれば返事ができる。

娘のわたしの名前はほとんど覚えていない。

でも、わたしのことは娘だとわかっている。

 

名前を呼ばれなくても、眼差しできちんとわかる、届いているよ。大丈夫だよ。

と、あの日の父に言いたい。

 

「愛おしい」心書vol.86

「◯◯ちゃんはやっぱり可愛いなぁ。」

実家のドアを開けたら、父と目があった。

その瞬間に父がそう言った。

母がすかさず、

「なんや。お父さん、気持ち悪いなぁ。」

とつぶやく。

「ありがとう、お父さん。」

とわたしは言った。

「なんでこんなに可愛いんやろうか。」

と父が続けた言った。

 

父の弟、つまりはわたしの叔父の葬儀の日。

通夜には弟たちが付き添ってくれたが、

葬儀にはわたしが付き添うことになっていた。

前日、母や弟たちから、父は叔父が亡くなったとわかっていないと思う

と聞いていた。

 

父の様子がおかしいと認めざるを得なくなってから

1年3ヶ月が過ぎていた。

父がおかしいと思い始めたきっかけは

両親を連れて、夫の故郷へ旅行したことであった。

コロナ禍で入籍したこと、夫の故郷が田舎なこと、

結婚してから間も無く義両親が立て続けに亡くなったこともあり、

わたしの両親は夫の家族と会えないままであった。

そのことが気になっていたので、遅くなったが両親と旅行することにした。

無事、義妹たちとも会え、義妹たちは義両親の心残りを晴らせたと喜んでくれた。

『良かった。良かった。』

そう思いながら帰路についたのだが、父の様子がおかしい。

 

「ここはどこや?」

と父が聞いてきた。

「旅行の帰り道だよ。もうすぐ△△だよ。」

と答えても直ぐに

「ここどこや?」

と聞いてきた。

 

その日を境に父は色々な人に電話をかけるようになった。

今まで仕事中のわたしに電話してくることはなかったが、

その日を境に度々かけてくるようになった。

父はまだ働いている気持ちになったようで、

退職した伯父の会社へも度々電話していたことを

従兄弟からの連絡で知った。

 

『おかしい。』

と思いながらも、元々、頸動脈瘤や老人性水頭症による

認知力の低下については聞かされていた。

その当時、東京へ月の半分出張しており、

自分のことで精一杯であったわたしは

「老人性水頭症の悪化かな。」

と思った。

 

その年が明けるか明けないかの時期に

とうとう母が「やっぱりお父さんがおかしい。」と言い、

認知症外来を予約すると言い始めた。

『大丈夫であろう。』

そう思いながら、病院に付き添うことにした。

様々な検査を経て、父は頸動脈瘤や老人性水頭症の影響より

アルツハイマーによる影響が大きい認知力低下だと診断を受けた。

 

そこからあれよあれよと言う間に

父は自分の名前も言えなくなった。

かろうじて、自分の名前を呼ばれれば返事ができる。

わたしのことは分かるものの、名前が出てこない日がほとんどだ。

 

そんな父と会話らしき会話をした最後の記憶。

 

お父さん、わたしは今もかわいい娘でいられていますか?

「リーキーガット」心書vol.85

『あれからもう1年かぁ。』

 

一昨年末、急に全身に湿疹がでた。

痒くて眠れない日が続き、昨年は新年早々に診てもらえる皮膚科を探した。

゛極度の乾燥肌(皮脂欠乏性湿疹)゛と診断された。

出された薬を塗っている間は湿疹も治ったが、

妊娠をきっかけに薬をやめることになり、

治っていた湿疹は日に日に酷くなっていった。

妊娠中はそれでも気持ちは前向きだった。

流産を機に、自分のカラダと向き合う必要性を感じた。

 

以前からネットで調べ、気になっていた病気があり、

流産した際の診察で気になることを聞かれた時、

そのことを思い切って口にしたことをきっかけに

検査をまずは受けてみることにした。

 

特殊な検査のため、受けられる病院も限られており、

また保険適用外のため、高額な医療費がかかることもわかっていたが

わたしには前に進むという気持ちしかなかった。

 

様々な検査の結果、わたしが思っていた病気ではなかったが、

リーキーガットと呼ばれる

腸壁が薄くなることで様々な症状がでる病気だと診断された。

湿疹が酷くなってきた時から小麦粉はきっぱりやめていたが、

追加でアルコール、乳製品もやめることになり、

砂糖、桃なども気をつけることとなった。

治療が終われば、再び食べられるようになることが

心の大きな支えになっている。

 

治療を始めてから半年。

湿疹も治ってきていた中、コロナにかかった。

ようやく治ってきていた足の湿疹が一気に悪化した。

 

検査をきっかけに通い始めた内科の先生から

追加の検査をすすめてもらった。

結果、わたしのカラダには重金属がかなり蓄積しており、

リーキーガットに加え、それらが湿疹をはじめ、

様々な不調をまねいていることがわかった。

 

小麦粉や乳製品をやめた際に

インターネットで調べた結果、

本当なら食べる量も減らし

腸を休めた方が良いのではと思ったが

゛食べないこと゛と゛食べられないこと゛の違いを痛感していたわたしは

大きく食べる量を減らすことはしなかった。

食べたいのに食べられないストレスを感じていたからだ。

しかし、コロナをきっかけに朝ごはんをスムージーへ切り替え、

食べる量を意識的に減らした。

 

1クール5ヶ月の治療も2ヶ月目に突入した。

一進一退の状況だが、

『今年こそは小麦粉と乳製品を食べられるようにするぞ!』

と、改めて心に誓った元旦であった。

「初盆」心書vol.84

夫が仕事で不在の週末、わたしは急ぎ足で歩いていた。

わたしにはルーティンがある。

自宅の最寄り駅へ向かっていると、

ふと、消え入るような小さな声が聞こえてきた気がした。

「すみません。」

振り返ると年配の女性が座り込む勢いでしゃがみこんでいた。

 

わたしは急いでいたが、その女性がいるところまで戻った。

話を聞くと病院へ向かっていたが、道を間違えて、迷子になっていたようであった。

時間も時間であったため、

『もう診療時間には間に合わないのでは?』

と思ったが、取り敢えず、向かっていた病院へ電話した。

 

電話している最中、その女性は暑さと疲れから倒れ込んでしまった。

結局、病院には間に合わないとなり、

病院から娘さんへ電話してくれることになった。

女性を近くのコインランドリーの中へ連れて行き、

そこで娘さんを待つように伝えた。

 

『はて、間に合わない!急がなくては。』

と思いながら、時計をみたら、もう、予定から大幅に遅れていることに気が付いた。

 

何秒か考えた結果、わたしはタクシーを探した。

近くに休憩中のタクシーを見つけたので、

事情を話し、タクシーをまわしてもらった。

女性はふらふらになりながら、歩き始めていた。

急いで呼び止め、タクシーに乗せた。

体調不良からか、その女性は住所が直ぐに答えられなかったが、

荷物の中に郵便物があり、そこから自宅がわかった。

 

無事に女性を自宅まで送り届け、

わたしはルーティンをこなすために出発した。

案の定、予定の送迎バスには全く間に合わなかったため、

市内バスでいつもの温泉にたどり着き、いつもより素早く入浴した。

 

そして、女性のことを思い出していた。

「知らない人にこんなに優しくしてもらったのは初めてです。

 本当にありがとうございます。」

別れ際、涙目になっている女性からそうお礼の言葉を頂いた。

わたしはただ義母に似ている気がして、ほうっておくことができなかったのだ。

義両親は1年ほど前まで2人暮らしをしていた。

日に日に出来ないことが増え、周りに助けてもらって生活していたと想像する。

だからではないが、誰かの力になれたのなら、

まわりまわって、義母の力になれるかもしれないと思った。

そんなことを思いながら、温泉につかり、帰宅した。

 

義母が亡くなったのは、90歳の誕生日から約1ヶ月後だった。

90歳の誕生日にはわたし達夫婦も大阪から駆けつけ、孫も集まり、

義母はとても嬉しそうだった。

「◯◯ちゃん、△△ちゃん(夫のこと)をよろしくね。またね。」

と手を振ってくれたのが最後になってしまった。

 

義母は強い人だったとみんな口を揃えて言う。

軍の上層部の家に生まれたことから、

養子に出され、養子先を転々としたと聞いた。

そんな義母はわたしの故郷に住んでいたことがあると話してくれた。

「初恋の人が住んでいて、、、。」

と、義母の初恋がわたしの故郷であったことを話してくれた時の

義父のすねた顔が忘れられない。

 

義父が亡くなって半年も待たず、

義母も逝ってしまい、この夏が義両親の初盆になった。

きっと義父は寂しかったのだと思っている。

 

お義母さん、もっと色々なことを教えてもらいたかったです。

お義父さんと仲良く、見守ってください。

「初心を思い出す」心書vol.83

先月の役員会で執行役員に選任された。

ついてきてくれている部下達に改めて感謝した。

少し前に内示は頂いていたが、実感があまりなかった。

正直、内示を受けた時、驚きと同時に安心したような気持ちがあった。

 

夫は同じ業界に勤めている。

結婚する時、私はもう今の役職以上には昇格はできないであろうと思った。

夫にその旨を伝えたところ、「本当に結婚して良いか?」

と、念押しを受けたことを覚えている。

 

私の勤め先はオーナー企業だ。

同じ業界に経営者の夫がいることは

きっと想定外であっただろうし、

ウェルカムではなかったであろう。

 

結婚する直前、部長職へ昇格した際、

『このままいけば(今までの私なら)2年後に執行役員になれる可能性もあるだろう』

と頭をよぎったことは事実だ。

その可能性がなくなったとしても良いと思って結婚した。

 

営業数字を上げること、

部下や他の部署の若手に目を配ることを

今まで以上に気をつけた。

『役職じゃない。

やれることをやろう。』

 

「旦那さんは変わらずご飯作って待ってくれているの?」

会食した際、勤め先の社長から聞かれた。

「はい。」と答えたら、

「家事してくれる旦那さんで本当に良かったよね。」

と専務が続いた。

 

「◯◯さんの人生にとってプラスになれるよう、

 今まで通り、いや、今まで以上に好きな仕事ができるよう

 頑張りますので。」

結婚を認めてもらおうと顔合わせした際、

わたしの両親にそう宣言した夫は

平日の夜ご飯をつくり、帰りを待ってくれている。

他の家事も率先して担ってくれていること、感謝している。

 

若手の頃、勤め先の取締役は転職してきてもらうことが多く、

営業先へ同行してもらっても

「初めまして」となることがほとんどであった。

『もし、自分が役員になれる日がきたら、

その時が初めましてではなく、

「あっあのひよっこが?」

と思ってもらえるように頑張ろう。』

そんなことを同行してもらいながら、思っていた。

 

執行役員から取締役になるにはまだまだ足りないことばかりだが、

その気持ちを忘れず、頑張ろうと思う。

「2周年」心書vol.82

昨日は結婚記念日だった。

結婚してから2年が経った。

この1年間は特に悲しい出来事が多く、

夫と楽しくGWに旅行できたことに感謝だ。

 

わたし達夫婦は仕事上で知り合って8年が経っているが、

2人きりで会ってから約3ヶ月で入籍したため

結婚してから知ったことの方がお互いに多いと思う。

普段は照れ臭いので、夫の良いところをあえて口にすることはないが、

この1年で実感したのは辛い時、悲しい時、

必ず寄り添ってくれるところは良いところだと思っている。

 

義父やお世話になったおじいちゃんが亡くなったことはもちろん、

ようやく授かった我が子を流産してしまったことは

とても辛く、悲しかった。

流産したことがわかった日は夫の誕生日だった。

『先週まであんなに元気だったのに。』

そんなことを考えてしまい、すっかり食欲が落ちてしまった。

仕事中は気が張り詰めているから良いが、

会社から一歩出てしまうと涙が止まらない。

 

『日にち薬だ!』

と自分に言い聞かせて、毎日を淡々と過ごすことでしか

自分を保てなかった。

 

そんなある日の夕食時、夫の様子がおかしいなと思ったので、

「大丈夫?」と尋ねた。

「◯◯ちゃんが普通にご飯を食べてくれるだけで

 僕は幸せだと思って。」

と夫はこたえた。

目に涙を浮かべる夫をみて、

『この人と結婚して良かった。』

と心底思った。

 

夫は悲しむわたしに特別なにかを言うわけではなかった。

むしろ今までと変わらず接してくれ、

夫の前で泣いてしまった時は無言で肩を抱いてくれた。

でも、内心はすごく心配してくれていたのだと改めて気付いた。

そして、そのことに気付けて良かったと思った。

 

新たな1年もいろいろなことがあると思うが、

夫婦で乗り越えていきたいと思う。

「義父」心書vol.81

 

「◯◯さんがお嫁に来てくれて

 ▲▲(夫)も喜んじょりますが、

 わしも喜んじょります。

 本当にありがとうございます。」

 

思い切って夫婦で購入した新居へ引越しして10日後。

わたしの両親を新居へ招待した日、

初めて義父とわたしの父が話をした。

義父は我が父へ感謝の気持ちを伝えてくれた。

まさかそれが最後の会話になるとは思っていなかった。

 

義父が亡くなった。

自分の孫とさほど年齢の変わらない相手が

息子の3度目の結婚相手だとは義父も想像しなかったであろう。

それにもかかわらず、義父はいつも優しく、

わたしの家族の体調を気にしてくれた。

孫みたいな年齢のわたしに、叱る気持ちもなかったのかもしれないが、

義父と話す時間がわたしは好きだった。

 

亡くなった日、朝から娘2人に電話をしたが、繋がらなかったようだ。

留守番に入っていた声があまりに辛そうだったからと

午後から娘(義妹)2人で施設へ様子を見に行ってくれた。

義父の部屋を覗いたら、苦しそうだが、呼吸はしていたとのこと。

施設の看護師さんと打ち合わせを5分程した後、

再度、部屋を覗いたら、もう息を引き取っていたとのことだった。

施設に入った6日後だった。

 

義父は16年前に末期の胃癌にかかり、

余命宣告をされた。

しかし、奇跡的な快復をみせ、完治させた。

夫の家族いわく、末期の癌患者には見えなかったとのことだ。

同部屋の方々が次々亡くなる中で義父は言ったそうだ。

「そりゃ、みんな、『もう無理だ。無理だ。』とばかり言っているからだ。

 『死ぬ。死ぬ。』と言っていたら、死ぬだろう。

 わしは死なんからな。」

 

〝病は気から〝

正にそれを体現したのが義父の人生だった。

 

身近な人が亡くなり、気が弱くなってしまった義父。

もっといろいろな話をしてみたかった。

 

お義父さん、辛い事が続いて、さすがにこたえますが、

気持ちだけは強くもって、▲▲さんと夫婦で前へ進みます。