「クレーム」心書vol.51

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新卒で入社した出版社では入社後半年したら

担当先を持たせてもらうことになっていた。

わたしは関西出身ということもあり、

より関西に近い地域の担当をさせてもらうことになった。


先輩社員と引き継ぎの挨拶まわりへ行った際、

他の人と同じ様に挨拶をし、困り事などないか声をかけたら、

1人の方からすごい大きな声で怒られた。

先輩社員が直ぐに飛んできてくれたが、

私はただ謝ることしかできなかった。

その後、周りの方々が

「気にしないでね。また来てね。」

と声をかけて下さったが、

『何がいけなかったのか?』

と、私は悶々と考えていた。


先輩社員からは

「これからはあの人には声をかけなくて良いから。挨拶だけで良いから。」

と言われ、もう一度同行して下さることになった。


その後、1人でまわるようになってからも

その方には

「こんにちは。」

と挨拶するに留めていた。

ある日、その方と目があったので、普段通りに挨拶をした。

すると、

「時間あるか?」

と聞かれ、紙を渡された。

紙には勤め先が出版している本に対する質問や意見が約20個書かれていた。

「必ず回答が欲しい。」

と言われたので、直ぐに上司へ電話した。


当時、勤め先では、出版物に対するご質問やご意見は営業が申請書を作成し、

編集部が確認、内容によっては有識者の方に回答内容を確認もらってから、

ご質問頂いた方に回答書として提出することになっていた。

1つの質問に対して、1ヶ月程時間がかかることもよくあったので、

約20個ご意見を頂いたとなると、とてつもない時間がかかるであろうことが

新人の私でも想像できた。

上司からは

「クレーマーじゃないよね?」

と言われたが、初回に怒られたことももちろん報告済みだったので、

上司から1本編集部へ連絡を入れてもらってから

申請書を作成することになった。


編集部の方が頑張ってくださり、

次回の訪問時には回答書を持って行くことができた。

編集部曰く、

「ご質問の内容が的確で、こちらが勉強になった。

 次回改訂時には必ずご意見を伺いたいと伝えてもらいたい。」

とのことだった。


回答書をお渡ししたら、直ぐにその場で内容を確認して下さった。

この沈黙がすごく緊張した。

「きちんと回答をくれてありがとう。

 実は以前、あなたの会社の方から

 「何かお困り事ありますか?」

 と聞かれたから、いくつか質問したことがある。

 でも、いつまでも回答はくれなかった。

 僕はあなたの会社の本が好きなんだ。

 そんな時、あなたに

 「何か伺うことありますか?」

 と聞かれて、聞いても答えてくれないのにと怒ってしまったんだ。

 申し訳なかった。」

そうお話してくださった。


その日以来、その方とは普通にお話できるようになったし、

何より、勤め先の本を積極的に採用して下さるようになった。


怒られた時は本当に落ち込んだが、

〝ピンチはチャンス〝

ということを身をもって学ばせて頂いた。

今もすごく感謝している。

「斜め上」心書vol.50

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「◯◯さんって人が思う斜め上をいきますよね。」

この秋に入社した部下から言われた言葉だ。

直前に話した内容が関係しているみたいだ。


定時少し前に納豆の話をしていた。

私「▲▲の◼️◼️社長は納豆が大好きらしいよ。

 大学が東京の●●大学で、上京して、納豆の味を知ったっておっしゃっていたわ。」

新人「納豆を大学時代に知るって好き嫌い分かれそうですね。」

部下A「そう言えば、◯◯さん、昔、◼️◼️社長に手作りの納豆をプレゼントしてたよね?」

新人「え!?納豆をプレゼントしたんですか?」

私「あっうん。私も納豆が好きで、エジプトに住んでいた頃、よく自分で作っていたから。そんな話を◼️◼️社長と会食の時にしたんよ。で、次かな?お会いした時に持って行ったよ。」

新人「出来上がるのにどれぐらい時間かかるんですか?」

私「3日かな。だから、金曜日の晩から作って、日曜日に出来上がる感じかな。」

新人「自分がおススメの納豆をプレゼントするとかじゃないんですね。味はどうであれ、手作りのチョコレートと違って、手作り納豆を家族以外からもらったことがある人っていないと思います。」

部下A「だから、◯◯さんの隠れファンが多いんやで。」

私「誰にでもしていないですよ。3日も時間かけるなんて。◼️◼️社長は一人暮らしだし、尊敬しているんで!」

新人「記憶に絶対に残っていると思います。」


帰り際、新人から

「僕、目の前で◯◯さんが斜め上のことをするところを見たいです。」

と言われた。

自覚はないので、わざとは出来ないが、

明日はそんな新人と同行だ。

「ジャスミン畑」心書vol.49

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「なぜ、エジプトへ留学したの?」

よく質問される。

わたしはエジプトのジャスミン畑における児童労働のフィールドワークがしたくて、

エジプトへ留学した。

普通の大学生だったわたしには通訳を雇うという選択肢はなかった。

自分がアラビア語ができるようにならないと

フィールドワークが出来なかったため、

まずはアラビア語の勉強をカイロ大学で始めた。


留学から約半年後、フィールドワークしたいと思っていたジャスミン畑を探し始めた。

大学の授業で児童労働の勉強をした際、

エジプトにあるジャスミン畑を例にしたドキュメンタリーをみた。

ドキュメンタリーの中で、子ども達は仕事へ向かう車が横転し、大怪我をする。

それでも

「仕事へ行きたい。」

という子ども達を

「可哀想だ。」

とし、児童労働を批判したままドキュメンタリーは終わった。


大学生のわたしは不思議だった。

『日本だって丁稚奉公の時代があり、

 子ども達が働いていた。

 自分達が経済的に発展したから、児童労働は全部ダメというのは

 新興国の経済発展をとめることなのではないか?

 また、その子ども達を不幸せだと一方的に決めつけるのはおかしくないか?』


わたしはモヤモヤしていた。

そんな時に大学の掲示板で、エジプト政府の奨学生募集の貼り紙をみつけ、応募した。

結果、約1年間、アラビア語学習という目的で留学できることになった。


ジャスミン畑にはなかなか辿り着けなかった。

ようやく教えてもらえた住所は、例えば、尼崎市大阪市の間という様な内容だった。

直ぐに見つかるはずがない。

何度かトライして、ようやく辿り着いたジャスミン畑で

わたしはとあるジャスミン畑のオーナー一家にお世話になることになった。

彼らは急にやってきたカタコトの文語しかアラビア語が話せず、

そこに辿り着いた理由を「ジャスミンが好きだから。」としか言わないアジア人のわたしに本当に良くしてくれた。


何度か日帰りでお邪魔した後、泊まらせてもらうようになった。

徐々に村の中を自由に歩けるようになり、

ジャスミン畑で一緒に働かせてもらったりもした。


ジャスミンの収穫は夜中に始まる。

初めてお泊まりさせてもらった時に驚いた。

夜10時以降にベランダに出ると村中にジャスミンの良い香りが充満するのだ。

そのため、収穫は夜中に始まり、朝の8時過ぎには終わる。

そこのジャスミン畑は家族毎で何列かずつ収穫を担っていた。

例えば北から3列はA一家、次の5列はB一家といった感じだ。

収穫した花の重量で賃金が支払われていた。


家族総出で、みんな少しでも多く収穫しようと力を合わせていた。

子ども達とジャスミンを摘みながら、

「働くのは楽しい?」

と聞いたりもした。

「大変なこともあるけど、家族の力になりたいんだ。」

とよく答えられた。

村には学校があり、ジャスミン畑で働く子達は昼から学校へ行っていた。

学校へ行き聞いてみると2部制になっているとのことだった。


摘んだジャスミンを香水の素にする工場も村にはあった。

ジャスミン畑のオーナーに連れて行ってもらい、見学させてもらったこともある。

そこでつくられた香水の素を薄めたら、

欧米の有名ブランドのジャスミンの香水になる。


「◯◯知ってる?

 ここのジャスミンは欧米ですごく有名な香水になるんだよ!」

と、何度も子ども達から自慢げに言われた。

彼らがその香水を買える日はこないのかもしれないが、

その香水を買えないことが不幸なことなのかは分からなかった。


ジャスミン畑に辿り着くまで、わたしの留学生活はかなり波瀾万丈だった。

21年生きてきて、1番騙された半年だった。

かなり疲れており、

『エジプトなんて大嫌いだ!』

ナイル川を見ながら何回泣いたか数え切れない。

でも、ジャスミン畑に辿り着いて、わたしはエジプトが大好きになった。

彼らはわたしからお金を取ったり、騙したりしようとは一度もしなかった。

むしろ、わたしは常に彼らから与えてもらってばかりだった。


決して全ての児童労働が良いと思った訳ではないが、

彼らと生活しながら、

『幸せか、不幸かは他人が決めることではない。』

と強く思った。


未だにジャスミン畑のオーナー一家とは連絡を取り、

エジプトへ里帰りする際には必ず顔を出している。

そして、何か自分が迷うことがある時は彼らを思い出し、

『他人からみてではなく、

 自分自身が幸せだと思うか。』

問いかけるようにしている。

「アラブ革命」心書vol.48

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「なぜ、そんなにエジプトが好きなの?」

エジプトでよく聞かれた質問だ。

ナイル川の水をたくさん飲んでしまったから、

 必ずエジプトへ戻ってきてしまうの。」


エジプトにある諺の1つに

ナイル川の水を飲んだら必ずその地へ戻る」

というものがある。

「なぜ、アラビア語が上手いの?」

という質問にもこの諺で返すと、掴みはOKだ。

「きっと前世はエジプト人だったのね!」

となる。


私がエジプトへボランティアとして赴任して

約1週間後に〝アラブ革命〝が始まった。

すぐにエジプトへも波及して、みるみるうちに私たちの生活にも影響が出始めた。

外国人の家が狙われているらしい、

政府が革命をとめるためにインターネットを遮断するらしい、

水がとめられるらしいなど、

たくさんの噂が広まり始めて、実際にインターネットが繋がらなくなった時は焦った。


今まで何十年と日本で育ってきて、

身近に戦争やテロなどの争いを感じたことがなかったが、

国が変わっていく瞬間を肌で感じた。

そんな中、やはりこのままエジプトにいるのは危険だとなり、

私たちは一般の方々がチャーター機で帰国後、

民間機で日本へ帰国することになった。


その頃には政情も少し落ち着き始めていたが、

毎晩、デモ隊と軍隊が衝突し、

発砲音が聞こえ、催涙ガスが撒かれる状況は続いていた。


そんな中、同期の1人がどうしても自宅へ大事なマグカップを取りに行きたいと

みんなで暮らしていた避難所を飛び出した。

「危ないから諦めよう。」

朝から何度も同期で説得したが、彼女の気持ちを変えることが難しかった。

であれば、1番土地勘があり、語学ができる私が自宅まで付き添うとなっていたが、

彼女は私に迷惑をかけないようにと

私がトイレへ行っている間に飛び出したのだ。

慌てて追いかけ、一緒にタクシーで彼女の自宅へ向かった。


道中、彼女にはマグカップを取ったら直ぐに戻ること、

他の荷物は諦めることを約束してもらった。

アラブ革命が本格化して初めての外出だったので、

タクシーから見える景色は新鮮でありながらも、

とてもショックだった。


エジプトではタクシーの窓が壊れていることも少なくないため、

気にしていなかったが、その日乗ったタクシーの窓は開いていた。

タクシーの運転手さんが

「ここで昨晩、デモ隊と軍隊が衝突して、

 催涙ガスが撒かれたんだ。」

と話した後、何秒か後には私たち2人共身体中が痒くなり始めた。

特に肌が見えていた部分がものすごく痒い。

急いで窓を閉めてもらった。


無事にマグカップを回収し、避難所へ戻ると直ぐに身体を洗った。

催涙ガスを浴びると身体が痒くなると噂で聞いていたが本当だった。

痒くて痒くてたまらなかった。


しばらく日本で待機生活をした後、私たちは再びエジプトへ戻った。

エジプトはアラブ革命を経て変わった。

1番感動したことは、旧政府が倒れた後、

革命の中心地だったタハリール広場

エジプト人自身で清掃したことだ。

エジプトでは、残念ながら、ポイ捨てする人をよく見かけた。

反対に、ゴミ拾いをしている人を見かけることはまれだった。

自分達の国だから、自分達の手で未来を切り開くんだというパワーを感じた。


エジプトでボランティア活動を始めると

アラブ革命の負の面もたくさん感じた。

1つは観光客が減ったことだ。

それでも、エジプト人は前向きだった。

そんな彼らを見ていて感じたのは

どれだけエジプトが大好きでも、私は日本人だということだった。


選挙が行われた時、職場では〝誰に投票するか?〝という話題で持ちきりだった。

残念ながら、私にはエジプトでの選挙権がない。

「私はエジプトが大好きだけど、選挙へ行けない。

 だから、みんな、しっかり考えて、私の分も必ず投票へ行ってね。」

と、選挙の度に話した。


日本へ帰国する日が近づいてきて、

私は帰国後の進路についてよく考えるようになった。

〝エジプトで働いてみたい!〝と元々は強く思っていたが、

私が決めたのは日本で働くことだった。

エジプトでエジプト人達の愛国心に触れて、

『私も日本のために微力ながら頑張って働こう!』

と思ったからだ。

結果、エジプトへの恩返しになれば、尚良いと思った。


エジプトから帰国して、早くも8年経った。

〝日本で頑張る!〝と決めたものの

辛くて、逃げ出したいと思う時もあった。

そんな時はエジプトでの写真を見て、初心を思い出す。

アラブ革命はわたしにとっても大きなきっかけになったことは間違いない。

「ジェンダー」心書vol.47

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「◯◯、日本の企業には女性の営業マンはいないのか?

 今まで◯◯以外に日本から女性の営業マンはきたことがない。」

入社して最初に担当させてもらった海外取引のメインは中国だった。

当時は中国へ年に3-4回出張していた。

最初は中国のみだったが、他の仕入れ先を開拓できたこともあり、

途中からは台湾から入って、中国、東南アジアをまわってから帰国するルートで出張していた。


入社して初めて輸入した仕入先の担当者とは

たまたま同じ誕生日だったこともあり、

色々な話をざっくばらんにさせてもらっていた。

ある日、その担当者から聞かれた質問がはじめの内容だ。


私も初めて海外出張する時は事前に上司と面談があった。

中国語が出来ない20代の私を1人で海外出張させるのはいかがなものか

と、社内で意見が分かれたらしい。

「私は◯◯さんがどうしたいかが1番大事だと思う。

 1人で行くのが怖いなら、誰か男性社員をつけることも出来る。

 どう思ってる?」

上司からそう聞かれて、私は迷わずに

「1人で行ってみたいです。」

と答えた。

「何かあれば自分が責任をとります。」

と上司が社内を説得してくれ、私は1人で海外出張できることになった。


1人で海外出張すると女性だから助かることも感じた。

例えば、必ず送り迎えを手配してもらえることは助かった。

たまにタクシーに乗って仕入先へ行くことがあったが、

乗る前に仕入先の人へ電話し、

タクシーの車番から運転手さんの身分証などの情報をチェック、

移動中も5分に1回はメールか、電話がくる。

私は中国語の通訳をお願いしていなかったので

お取引先の方には心配をかけていたのだと思う。


「なぜ、通訳をつけないのか?

 日本の商社マンの多くは英語ができても

 必ず通訳をつけてやってくるよ。」

と聞かれたこともある。

幸いにもお取引先の方々は海外留学の経験がある方も多く、

英語が堪能な方も少なくなかった。

「お互い外国語にはなるけど、英語が話せるから。

 私が話した内容や思いをきちんと通訳してもらえるか分からないのなら、

 拙くとも自分が話した方が理解し合えると思って。」

と、いつも答えていた。

少し中国語を覚えたが、お遊び程度でビジネスには全くつかえない。

夏休みを利用し、1週間、上海へ中国語を勉強しに行ったことは

お取引先の方々を驚かせたようで、

その後訪問した際、少なからず進歩した私の中国語を褒めてくださった。


1人で私が海外出張できるのは上司のお陰なので、

少なからず安全に帰ることだけは守らないといけないと思っている。

そのため、夜は日本から持ち込んだカップラーメンをホテルで食べることも少なくない。

プライベートな旅行なら、夜もふらっと出かけて外食するだろう。

出張中に何かトラブルに巻き込まれたら、

私の後に女性社員が海外出張しにくい環境になるかもしれないと考えると

夜は出かけずに、ホテルでゆっくりするようにしている。


出張中、トイレにドアがなかったり、清潔ではなかったり、不便なこともあるが、

男性でも同じなのではないか?と思っている。

知り合いの男性は、海外の空港のトイレで痴漢にあったと話していた。

これからは男性だから、女性だから、安全だとは限らなくなるかもしれない。

いつか〝日本から女性の営業マンは来たことがない〝というのが

遠い過去だと言われる日がきたら良いなと思っている。

「武器」心書vol.46

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「◯◯はそのしょぼい武器でたたかうつもり?」

中間管理職になって少しした頃、他部署の部長から言われた言葉だ。

しょぼい武器=部下がしょぼいという意味らしい。

当時、とても悔しかったことは忘れられない。


「◯◯は部下に優先順位をつけへんからあかんねん。

 優秀な部下の仕事は優先して確認、承認して、

 できない部下の仕事は後回しにするべき。

 まっ◯◯の部下は出来ないやつばかりやから優先順位もないんか。」

これもきつかった。

その時、私の部署はその部長の部署より成績が芳しくなかった。

言い返しても、結局は結果が出なければ、認めてもらえないと思った。


私はできるだけ全員に対して平等に対応したいと思っていた。

常々心掛けていたし、部下が出してきた書類は

基本的には提出してきた順番に確認するようにしていた。

「それだから成績が上がらないんだ。」

と言われても、変えたくない気持ちが強かった。


中間管理職になるよりも前、私には暗黒時代がある。

当時の上司と気が合わず、私の出す書類がことごとく通らなかったり、

後回しにされることがあった。

『私の書き方がいけないんだ。』

とずっと思っていたが、上司が本社へ出張時に

「◯◯の書類は絶対に通さない。

 気に入らないから。」

といつも話していると聞き、

『世の中にはそんな人がいるんだ。』

とショックだった。

そんな経験から、承認は出来るだけ平等にしたいという思いがあった。


『結果を出さないと。』

と焦れば焦るほど上手くいかないものだ。

30代前半で中間管理職になって、部下はみんな15歳以上年上。

なかなか上司として認めてもらえない中、

成績を上げないといけないプレッシャーでギスギスしていた。

そんな時、当時の上司にはよく話を聞いてもらっていた。


ソリが合わなかった上司の後、新しく上司になったのは

全く別の事業部を統括している上司だった。

新しい上司は前々任者から

「ひとまず◯◯さんの話を聞いてあげて欲しい。

 色んなことがあったし、近くに話ができる上司がいた方が心強いと思うから。」

と言われていたらしく、よく色々な話をした。

新しい上司は業界のことには詳しくなかったが、

求心力のある人だった。


「若いからこそ、なかなか受け入れてもらえないとは思う。

 でも、◯◯さんには新しい上司像をつくってもらいたい。

 錆びている剣だって磨けば、新品とは違う良さがあります。

 自分の武器を信じて手間暇かけて磨き続けてください。」

新しい上司はなかなか上がらない数字に対して

いつも会議で謝ってくれていた。

申し訳なかったが、新しい上司から

「3年間は自分が後ろ盾になって、見守るから。」

と言われていたので甘えることにした。


〝しょぼい〝と言われてしまった部下たちだが、

私にとっては掛け替えのない部下たちだ。

結果を出すために、部下たちとの同行や面談を増やした。

自分の担当先も増えたままだったので、かなりきつかった。

始発の出社や出張は週1以上あったし、

夜の会食は週3以上あり、

『限界だな。』

と何度も思った。


根底にあったのは〝誰一人、離脱させないこと〝だ。

そのためにも利益を上げないといけないと必死だった。

2年目、私の部署は3拠点の中で1番利益を上げた。

それ以降、他の部署からは何も言われなくなった。

今年は3年目。

残念ながら上司は変わってしまったが、

あの時頂いた言葉を忘れず、

自分の武器は大切に、磨き続けたいと思う。

「期待」心書vol.45

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年末年始に読んだ本のあとがきにこの様な内容があった。

独立行政法人国立女性教育会館が、入社してから5年間の男女社員の意識変化を調査している。そのなかの、管理職を目指したいかという設問に対し、入社初年度、男性社員の94%は管理職を目指したいと回答したのに対し、女性社員は58%。そして翌年、初年度に管理職を目指したいとした女性の2割が、わずか1年の間に管理職を目指さないに変わっている。入社3年目、さらに目指す女性は減り、早くも同期入社男性の半分以下となっている。〝

〝調査担当者は、入社後のわずかな期間に、女性たちが管理職を目指さなくなるのは、「私は会社から成長をそんなに求められていない」、「期待されていない」と早々と感じてしまう人がかなりいるからではないか、としている。〝

出典:『総理の夫』 著者 原田マハ

    P.451


思い返せば、大学を卒業して初めて入社した会社は

女性営業マンに期待していなかったと思っている。


新入社員研修を終え、配属されてから暫くして気になる話を耳にした。

研修を担当してくださっていた4歳上の女性先輩社員が休んでいるという話だった。

それもその話には触れてはいけないという社内のプレッシャーがあるらしく、

「気になるけど、触れない方が良いよ。」

と同じ部署の女性先輩から言われた。

『体調を崩されたのかな?』

と思ったが、アドバイスに従い黙っていた。


その4歳上の女性先輩はとても優秀で、

既に営業成績1番で表彰されたことがあるらしかった。

物静かで、可憐な雰囲気のある方だった。

研修中、女性営業の同期がいない私を気にかけてくださり、

常に横にいてくださった思い出がある。


また少しして耳に入ってきた話は違う内容だった。

退職されるという内容だった。

聞くと、4歳上の女性先輩は同じく研修担当だった男性先輩とお付き合いされており、

授かり婚だった。

繁忙期中の営業エースの授かり婚に会社の経営陣は怒り狂い、

相手の男性先輩を問い詰めた結果、

男性先輩は精神的に参ってしまったらしいということだった。


結局、女性先輩は妊娠を機に退職され、

出産後、契約社員として復帰することになった。

社内には既にそういった形で復帰され、

子どもさんが大きくなられた段階で正社員に戻り、

管理職になられている女性の上司が1名いらっしゃった。

女性先輩の上司だった。


私はすごく不思議だった。

『なぜ、妊娠したら退職し、続けたければ契約社員にならないといけないのか?』

いつか海外で働きたいという気持ちがあったので、

留学費を貯めたら辞めるつもりでいたが、

それでも納得できなかった。


『総理の夫』のあとがきを読んで、そのことを思い出した。

『期待されていない。』

と感じるとやる気が失せるのは経験済みだ。

であれば、男女関係なく、

部下達には期待していることが伝わらないといけないと思った。

明日が初出だが、意識しようと思う。